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工藤さん

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人生ゲームは ノーサイド

2013年1月号

  なぜか久しぶりに山本周五郎を読んでいる。作者は『日々平安』で、橋の下に住む乞食に「もうこちらに(も)世 間的な欲やみえはない、ですからどんなこともそのままに見、そのままに聞くことができます。いいものです。ここから見るけしきは、恋もあやまちも、誇りや 怒りや、悲しみも苦しみさえも、いいものにみえます」といわせている。

 僕が「サラリーマン道」を闊歩していた40歳代、通勤途中の地下道に居た浮浪者たちに奇妙に惹かれていたことを思い出す。浮浪歴一日目には日経新聞を読 んでいた人が、何日目かには紙バッグひとつ、そのあとバッグ三つと増え、最後は足のかかとが、まるで木屑のようにポロポロと風化して欠けていくプロにな る。一メートル低い浮浪者の目線からは、あくせくしている人間模様の空しさが透けて見え、一度座り込んだら立ち上がりたくなくなるんだろう…東京駅から新日鉄ビルに通じる地下道での日々だった。

 いったいに王道といわれる生き様は「お蔭様で大過なく過ごせました」という、幸せ感漂う言葉で締めくくれるものなのだろう。残念ながら僕の人生は、その 対極にある波乱万丈だ、と人さまから言われる。何も好き好んで乱気流に突っ込まなくても…ということらしい。だけど僕にはそういう風にしか生きられなかったのだから仕様がない。

 人生模様はさまざまだ。アメリカの砂漠のド真ん中で、ガソリンスタンドに立ち寄り、そこがたった200世帯の町であり、ほとんどの人がそこで生まれてそ こで死ぬということを知り、衝撃を受けたことがある。その砂だらけの小さな町にでも、華やかで目まぐるしい東京と同じように、一生かけた人生ドラマがある。傍からみて単調だろうが過密だろうが、人は笑い、泣いて怒って、そして等しく死んでいく。砂漠の中の小さな人生も、大過ない一生も、波乱万丈の一生の どれも、喜怒哀楽の果てに、芽生えて花咲き、結実して枯れ果てる植物と同じように終えていく。

 人は最後は、「充実した人生だった」とか、「残念無念」と言って死ぬのだろうか?いやきっと人は最後に、草木が風化していくような自然さで、合掌して淡々と、大自然の輪廻の世界に回帰していくのだろう。「老い」とはきっと、この回帰への「次第の準備」の日々なのだろう。大過なき一生か波乱万丈の一生かは、手間かけて育てたカーネーションか、棘ある野バラかのちがいはあれ、しょせん大自然に風化して果てる運命にある。どちらが美しく、どちらが価値あるか など、流転の摂理には無意味である。

 なのに僕はこれまで、人生の意義とか生き方の是否などをずいぶんと思い煩ってきたように思う。でも、もうそろそろやめにしよう、今の自分が僕なのだから。波乱万丈という乱気流の中は気が抜けない。いつ巻き込まれるかわからない怖さはある…が、小さな鳥が天高くすいすいと気流を乗り越えるように、軽やかになって乗り越えようと思う。思い煩って重たい心を軽やかに、重たいモノなど抱え込まず、捨てて捨てて捨てまくって、まき散らしてきたポイズンを一所懸命減らしきって身軽に…軽くなればフワフワの心で合掌し、風化していけるから…。

 佐倉のテニス仲間で、十数回の放射線と抗がん剤治療を受けながら、テニスを4年もやり続けてきた74歳の男性が居る。先日の飲み会にその彼が「ドクターストップがかかった。テニスにはもう来れない。酒は止めない」と、別れに来たが、淡々と語るあまりにもやさしいその笑顔に、僕は感動で身が震えた。これが、風化に達観した風情なのだ!

 そういえば最近、親鸞上人の「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」の語をさえ、身近に感じるようになった。この語は僕には、善とか悪とか正邪や 貴賤という人間世界のこだわりなど超えて、ひとみな等しく消え去る定めにあり、ただただ合掌して往生を願うべしという「無常の摂理」を伝えたもののように 映る。乱気流の中でポイズンを出し続けて生きてきた悪人工藤は、「いわんや悪人をや」の一語を胸に合掌し、「全き無の世界」に飛び散るのではなく、「輪廻転生」の連続の中に風化させていただきたいと願う次第です。【工藤】


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