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工藤さん

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命がけの美談を思う

2013年11月号

 村田奈津恵さん(40才)が、踏切の線路に横たわっている老人を見て、 父親の制止を振り切って車から飛び出して助けた。…が、ご自分は列車に巻き込まれて死亡した。JR横浜線の踏切事故だ。献花する人がひっきりなしだという。

 先だっても、韓国の若者が高田馬場駅のホームに落ちた人を瞬時に助けた。一体どうして、見ず知らずの人のために自分の命を投げ出せるのか。自分のような凡人にはできないと、誰しも自分を責めたことだろう。

 高田馬場駅の美談の主は若者だった。今回の美談の意味合いの大きさは、瞬時の美談の主が、純粋で正義感強く、血気盛んな若者ではなく、40才の大人だという点である。
 見て見ぬ振りや知らぬが仏を決め込んで、心のテンション低い私たちと同じように、日常という淀んだ温(ぬる)水の中に棲んでいる40歳…という状況をもった大人の美談であることで、「もしかしたら私たちにもできるかも…」と私たちを勇気づけてくれる。

 人間は、高い志と深い愛の持ち主でもあり、同時に、悪意と残虐性を合わせ持っており、日常の私たちは、残念ながら、この後者の色彩を濃くしながら、小ずるく生きている。…が、心がけ次第、努力次第で、もしかしたら私たちも高みにたつことが出きるかもと…、私たちの心に、微かにだが明るい光を灯してくれた美談である。

 動物の母親は、子どもが危機に瀕したら、命懸けで助けようとする。人間の母親も自分の子どものためには同じ行動をとるだろう。自分の家族の危機に、人は自分の命を捧げようとする。
 ところで人間は、血縁だけに生きる動物と異なり、「概念」の中で生きている。向こう三軒両隣という付き合いの概念があり、友があり、同胞がある。同じ同郷のひとがあり、そして日本人という共生概念がある。人と人の関係は、濃い血のつながりから、次第に希薄な概念上の関係になっていく。全部愛は次第に部分愛に、愛着は次第に希薄となり、そばで理不尽なことが起こっても見て見ぬ振り、触らぬ神に祟りなしを決め込む知恵が働くのが、現実社会の実態である。

 村田さんは、相手が見ず知らずの人で、同じ人間という概念的な存在でしかない人の危機のために命を投げ出した!概念的存在のために命がけになれる…衝撃的であり、人間の高潔さを実証してくれる行為である。
 人間は善から悪まで、高潔から残虐まで、幅広い心の周波をもっている。身内に取りまき、それにアーリア人という身内人種を溺愛し、ユダヤ人を大量虐殺した、かのヒットラーも、道路で転びけがをした少女を見て、「かわいそうに…」と抱き上げたという。
 人間の誰もがもっている聖者性に悪魔性。このどちらがより強く現れるかで、人の一生のあり様は決まる。さて聖者性を前面に悪魔性を後方に追いやるには、 いったいどんな法があるものか。村田さんは、小学生のときの作文で「私はどうすれば立派な人間になれるだろうか?」と自問し、「…努力するしかない」と自答していたという。おっとりした性格の女の子だった村田さんがいま、瞬時に聖者の心に身を捧げ得た、その背景には、もっともっと立派な人間になりたい!と 思い、その実行を心掛け続けた心の鍛練があったのだろう。

 凡人の私たちにも、心掛け次第では、高い志と深い愛の持ち主になることができる…村田さんはこのことを実証して見せてくれた。   
 高齢になった僕には、大した時が残されているわけではないけれど、せめて僕もこれからは、心の周波をいくらかでも高みに向けてギアチェンジして生きる努力をしようと思う。【工藤】

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