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工藤さん

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考えるヒント

2014年6月号

 久しぶりに小林秀雄氏の「考えるヒント」を読んだ。50年前の青春のおり、意味もよくわからないままに愛読していた本で、手に取ってみただけで、心が落ち着いた。
 読み始めると、冒頭の「常識」と「プラトンの国家」という小章の20ページに、いきなり現代日本の二大課題の本質を看破する見識が置いてあるのに驚いた。  
 二大課題…ひとつ目は、「人間と技術」の関係である。袋小路に入りつつある原発問題は、つまるところ、原発という、閾値を超えた極限の制御技術に、人間の生存をどこまで託せるのかであり、また、 コンピューター技術が演じ続ける、止めどもない利便とその裏側にある、人間の孤立化、ブラックボックス化、痴呆化等の悪弊の世界に、人間はどこまで付き合うのか、という課題である。
 二つ目は、今、安倍内閣がパンドラの箱から取り出してしまった「国家暴力の論理」をどう制御できるかという課題である。
 「考えるヒント」の叡智をこれらの現状課題に重ねてみると、いま私たちが忘れかけている、とても大切なことに気づかされる。
 小林氏は「メールツエルの将棋差し(エドガー・ポー)」を紹介しながら、機械と人間の違いに触れている。いわく。

…機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入してくれば、機械はなすところを知るまい。これは常識である。
…常識は、計算することと考えることとを混同していはしない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。「熟慮断行」という全く人間的な活動の純粋な型を現している。
…テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、私達は、機械を利用することを止めるわけにはいかない。機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして物を考えるという詰まらぬ習慣もすっかり身についた。
…常識の働きが利く範囲なり世界が、現代ではどういう風になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、ひとたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。

 原発問題では、脱原発時の電力不足量、活断層の具合、地震や津波の規模、原発の耐震力、放射能汚染水・放射能廃棄物の処理方法等々、専門家を語る人たちは、形相を変えて計算ばかりし合っている。
しかし計算機に酷似したこの人たちは、神業ともいうべき「極限制御」の信頼性計算の大前提として、大自然災害の摂理、人間や技術の不完全性について、如何ほどの見識をもっているのだろうか。
計算に計算を重ねて検証されていたはずの安全が、人的ミスも含めてものの見事に崩れ去って、今回の大事故である。事故のその後も、思惑外れだらけで計算通りにはちっとも推移していない。
私たちはもうそろそろ、一億総計算屋をやめて立ち止まって、「原発被災者の私生活に、実のところ何が起こっているか」を、もう一度自分の問題としてしっかり見つめた上で、原発に関して、得るもの、無くすもの捨てるもの、こだわるものを衡量し、人間の尊厳である「熟慮断行」をしなければならないのではないか。

 スマホやi-padが普及して、生活は一段と便利になった。しかしそれで人間はどうなってるか。検索サービスは便利で、ゲームは面白い。しかし、計算機が一方的に提供する、人心囲い込みモデルとガイドサービス=命令に飼いならされて、計算機がつくった筋書通り、命令通りに踊らされて遊んでいるうちに、すっかり痴呆化してしまってはいないか。
 周りの人的風景には目もくれず、朝からスマホでゲームをやっている人たちの指の速度、憑かれたような目の動きは、どんどん計算機に酷似してきていると思う。人間の魂の尊厳は、どこに行ってしまったのだろう。 
 安倍内閣が檻から出してしまった「国家」という巨獣についても、小林氏の警告は今様である。
 氏はソクラテスに、正義や国家について語らせている。

…どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法な欲望を内に隠し持っている。そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒り出すか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上がり、それを知識と言っているが、知識の尺度は、この動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。

 安倍内閣は、特定秘密保護法に始まり、残業代なし法案、憲法改訂、集団的自衛権の容認等々、戦後70年間にわたり、檻に入れられてきた「国家の論理」を、国民があれよあれよと驚いている間に、強引に推し進めている。しかも国家権力発動の要件は大雑把で、時々の内閣がどうにでもできるフリーハンドに近い危険なものである。危険というより、抗しがたい現実だと認識すべきであろう。
日本を破局に導いた軍国化の悪夢も、統帥権の傍若無人といい、満州関東軍の暴発といい、フリーハンドに近い愚行が、巨獣の欲望をむき出しにしたことから始まった。
巨獣が、その欲望に国民を屈従させる際に使う常套語がある。大平洋戦争前夜、軍部内閣は「アメリカが石油供給を止めたから…」と言った。安倍内閣はいま、「中国が尖閣諸島を盗りにくるから…」といい、国民はそれなら仕方ないかと納得ムードにある。

「アメリカによる石油ストップ」という暗澹たる事態にいたる前に、日本の軍部はアメリカに対して何ほどの叡智を発揮したことがあったか?「中国が攻めてくる…」という前に、なぜ安倍首相は短絡的な靖国神社詣でという無節操をしてしまったのか?
平和ボケしたマスコミさえも、最近はやっと「国家」という巨獣が檻から出てきたことに気付いたようだが、遅きに失した観がある。巨獣はもう暴れている。
最後の砦は、国民の常識であり、叡智である。「国家」という巨獣は、国民の生活などとは無縁の、むき出しの欲望で暴れるものだということを、この際肝に銘じた上で、熟慮断行をしなければならない。
権力に近い政治家を当てにはできない。氏はソクラテスに語らせている。

…経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人である彼らは、…巨獣の力のうちに自己を失っている人たちだ。自己を失った人間ほど強いものはない。
…政治は、思想の関係で成立つものではなく、力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力であることは知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力欲は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に転落する危機を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。
…指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血迷いタイラントなどになりたいだろう。だから誰もなるのではない。否応なくならされるのだ。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を喰う欲望のひそんでいる事を知ろうか。
…政治とは巨獣を飼いならす術だ。…巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、喰われてしまうであろう、と。

 いま、安倍首相の人気は高い。親しみ易さもあって、国民は巨獣の虜であるこの権力行使者を、個人の延長線上でとらえてしまって、安倍節に酔っている観さえある。しかし私たちは、彼を個人としてでなく、「巨獣の欲望の代行者」として冷徹に認識した上で距離を置き、熟慮断行をしなければならない。 
「国家」という巨獣の恐ろしさを知らなかった無垢の昭和の国民は、「国家」という巨獣に食い潰されてしまった。同じ愚を繰り返さないためにも、小林氏の警告を心に刻み込んで、「常識」という叡智を発揮すべきときが迫っている。【工藤】

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