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工藤さん

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対話忌避と不寛容は国是に悖る

2015年5月号

 「粛々と進める」…翁長沖縄県知事との面談の席上で、メモを棒読みした菅官房長官の言である。今日日政治家は、猫も杓子もこの言葉を使いたがり、特に菅氏は、この言葉を能面の表情で多用する。「周りがどうあれ俺はやる」…この言葉は、問答無用で対話拒否の姿勢を露にしている。そういえば、「話せばわかる」「問答無用」…昭和の初めにピストル越しに交わされた対話拒否の会話が記憶に生々しい。

 一体に安倍政権は、極端に対話軽視の政権である。「粛々と…」の答弁を繰り返す一方で、気に入らぬ演説には首相自身が汚いヤジを飛ばす。近隣諸国の神経を逆撫でしてでも靖国神社に参拝し、過去の謝罪は厭だと我を通して、中韓との対話は長期遮断。秘密保護法の制定から始まり、集団自衛権の是認、恒常法制定による自衛隊派遣のフリーハンド化そして憲法改正へと、対話を拒んだままに、あれよあれよと既成事実を積み重ねている。そしてついに、首相の口から「わが軍」という言葉が飛び出し、閣僚からは「八紘一宇」という恐ろしい言葉が発せられ、軍靴の足音が露わである。

 人間は、気遣い合って我慢し合いながら生きている。周りの息づかいや都合に自分を合わせる努力もする。これが大人としての素養である。自分のリズムをまわりに押しつけ、都合が悪くなると対決したがるのは、やくざと躾の悪い幼児と悪ガキどもである。

 政権は、国民への生殺与奪の権をもち、国の形を決める鼎だから、その関係者には、成熟した大人の素養と見識が特段に求められる。民主主義とは、みんなでみんなの幸せを納得し合う制度だから、その実現にあたっては、「対話」と「寛容」こそが必須である。極端に対話軽視で不寛容の現政権は、民主主義国家の鼎としての素養に欠けていはしないか。
 そして今度は、沖縄県知事との対話拒否である。4か月間も続いた。追い詰められて菅氏が対話に応じた時には、沖縄県民の大半も知事も先鋭化してしまっていた。   
 故・橋本龍太郎・元首相を偲ぶ会で、橋本氏と対決し合った太田・元沖縄県知事は「橋本氏の沖縄への深い関心が嬉しかった」と、橋本氏の気遣いに敬意を表したという。美談である。
 現政権は、基地問題を処するにあたって、一体、成田紛争を学習したのだろうか。歴史に学ぶのは大人の智慧なのだが、現政権は成田紛争の事など思いもつかなかったのではないか。成田空港の建設は、世界のハブ空港としての夢を背負う国家プロジェクトだった。不幸にも当時の政権は、地元の反対の声に耳をかさず、暴力的に測定を強行してしまった。結果はみるも無残で、住民は先鋭化し、空港予定地内に点々と櫓を建て、まるで戦国時代のように立て籠もってしまった。そのため当初の計画は挫折し、いま成田空港は見るも無残な姿を晒している。膨大なエネルギーと時間を費消した末の、国益毀損である。

 この国家的大失敗に、現政権は学ぼうとせず、いま沖縄は成田と同じ過ちを繰り返そうとしている。いや、成田以上に深刻である。成田空港建設に千葉県知事は反対しなかった。沖縄は県知事が身を賭して基地建設に反対すると言っている。そして能面の菅氏に、知事は、植民地扱いされてきた積年の怨念を吐露し、その後、知事は安倍首相を飛び越して、中国の首相との会談を強行した。アメリカにも直訴するという。「本土側」の積年の差別姿勢に絶望した沖縄県民は、日本という「国の枠組み」を飛び越えて、国連脱植民地化特別委員会、国連人権理事会等の国連諸機関に直訴している。成田紛争は、あくまで国内の土俵上でのことだったが、沖縄紛争は、チベットやウイグル等と同質の独立運動として、世界の視線に晒されることになる。日本の良友であるアメリカの高官さえも沖縄の先行きを憂慮し始めているという。

 防衛は国家の要諦である。しかし、主権者である沖縄140万人の人心をないがしろにしてまで守らなければならない大切なものが、いったいホントにあるのだろうか。
 世界に誇る文化大国・ニッポン。文化の神髄は、対立にではなく、多様性への寛容と融和の中にこそある。力や数を頼みとした直截や露わの中にはなく、柔らかく重層的な心配りの中にこそある。対話軽視と不寛容な現政権が、果たしてこの文化国家・ニッポンの鼎として適格なのかどうか、その根底から問い直されなければならないし、この政権によって「みんなが納得し合える幸せ」が本当に実現されるのか、目を皿にして見守らなければならないと思う。【工藤】

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