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工藤さん

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あの世の僕

2015年7月号

 先般、飲み食いの会で、死後の世界が話題になった。死んでも魂は残るんかい?残ってどこをさまようんかい?  僕のすべてが「絶対無」に帰してしまうという息苦しいイメージはいやだ。かといって、水素が90%を占める無機質の、気が遠くなるほど広大な大宇宙を、当てもなく魂がさまようイメージや、煉獄の暗黒空間にジッと漂っているイメージも、僕の性には合わない。「死後」は概念であり、概念は、人間が納得して生きるために必要なものだと思うから、僕は、自分に納得のいく、楽しい「死後」のイメージ概念を持つことにしている。  いやそれは僕が、というより、古来、日本人が生活リズムの柱として持ち続けてきたもので、輪廻転生の煌びやかで華やかなイメージ世界だ。

 古代から日本人は、大いなる自然に溶け込んで、素朴な太陽信仰に生きてきた。ご来光を拝すと「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と、思わず頭を下げて柏手(かしわで)を打つ。春に夏に秋に冬に、厳然と繰り返される自然の千変万化は、輪廻転生の無常観と八百万の神々を生み、信じて便利な死後の世界観を編み出した。
 日本人は融通無碍が得意であり、信心においても独特で、「神様仏様ご先祖様」を三位一体とした、ハイブリッドで融通無碍な死後観をもつ。
 死霊は、遺体のそばの草葉の蔭に、しばらくじっと潜んだ後に、50日の弔い上げで祖霊(ご先祖様)となり、33年経つと、祖霊は氏神様になって、裏の山に住んで、子孫を見守ることになる。仏教では33年かかって10万億土の彼方の極楽(須弥山)に行って仏様になるという。仏様になるには極楽が遠すぎるし、33年もかかってたどり着いた極楽から、どうして毎年簡単にお盆に帰って来れるのかと、少々嘘っぽくもあるので、僕は手っ取り早く、裏の山の神様になろう。

 裏の山の神様は、子孫の穢れや艱難辛苦をよろず引き受けてくれるから、その顔は穢れや難にまみれて異形の相だという。僕のいまの美形(?!)が壊れるのは忍びがたいが、岩手のナマハゲ程度の崩れ方らしいから我慢もしよう。
 僕は子や孫たちをいつも見守って、神木・桜が花を咲かせて、田植えの時期を告げると、田の神に変容し、子や孫と一緒に豊穣を願って、桜の木の下で祝い酒を厳かに振る舞おう。悪霊退散の夏祭りでは、悪霊に成りすまし、早々の退散を願う大盤振る舞いにあずかろう。秋になると、恵みに感謝の秋祭りで、大いに感謝され奉ってもらい、神人共食で、子や孫と酒を酌み交わそう。そしてピーヒャラ踊り狂おう。そしていよいよお正月。年神様に変容して、床の間に鎮座ましまして、お神酒と好物の数の子を食す。年の初めだから、一年分の力を与え、一年の計をしたためてもらおう。

 日本人にとって死後の世界は、神様も仏様もご先祖様も何でもありで、人間も羊も道端の可憐な月見草も、巡り巡り合って繋がり合う、隔たりのない無境の世界のようだ。その中を僕という神様は、春に夏に秋に冬に変幻自在に揺れ動く…死後というものは、とらわれがなく、実に実に愉快じゃないか!
 いつまでも生きて自我を主張すると、老害だと責められるから、これまで撒き散らしてきたポイズンの回収作業さえ終わったら、直ちにこの世とおさらばである。あの世の神様は、子や孫たちには見えないはずだから、どれだけはしゃいでも迷惑がられるこたーない。

 しかしである。うまい話しばかりではない。三途の川を渡ると、閻魔様が向こう岸でお待ちで、悪いことをした者は地獄へ持って行かれる。悪いこと?きっと僕が長年撒き散らし続けてきたポイズンは、勝手な自己愛の産物なので、他人様にとっては実に迷惑千万で悪っぽいことだろうから、このポイズンを本当にきちんと回収してしまえるまでは、死ぬに死ねない。【工藤】

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