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社長コラム

工藤さん

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凛として在りたい

2017年1月号

  幼い頃から僕は、人は平等で、社会は公正で正義が勝ち、人間は進歩の動物だと教えられてきました。社会に出てからも、人間社会の現実には色々あっても、結局はそうであるべきだと信じ、そのように生きて来たつもりでした。

 しかし生き長らえるに従い、また、人間の歴史を紐解けば紐解くほど、その実態は平等などではなく、あるのは不平等と差別に収奪とそれに対する怨みであり、公正などなくて弱肉強食であり、力だけが正義であったことを思い知らされました。そして、人類は進歩などしておらず、現代人は、縄文時代に人びとがもっていたバランスの智慧…自然との共生・欲望の制御・共生きのリズム…にさえも劣るという観を深くするようにもなりました。一見進歩しているように見える人間は、実は、問題を複雑に拡大しながら先送りしているに過ぎないのです。

 人間は何千年にもわたり、宗教や民族抗争を繰り返す度に憎悪を増幅し、贅沢三昧のために植民地を収奪してきました。欲望の赴くままに地球環境を破壊してきた末、生物として最も大切な「共生」の作法そのものも急速に無くしています。そして近年、自分や一握りの集団や自国の都合だけを一方的に押し付け合う風潮が、富に蔓延りはじめています。
しかし実は、その人間社会の歴史にもひとつだけ、民主主義という叡智の産物がありました。民主主義というものは、効率悪く衆愚政治につながりかねない無様(ぶざま)なものですが、人間が考えついた近代の妙手といえます。
圧政から人民を救い、「最大多数の幸せ」を求める進歩的な段取りであり、人間が血の犠牲でやっと手に入れた財産です。この点についてだけは、人間は進歩したと思ってきましたが、その民主主義もいつのまにか、すっかり霞んでしまっています。

世界の常識を無視して世界を睥睨しているのは、中国やロシアという専制国家であり、プーチンと習近平という独裁者が他国を侵略する傍若無人を、アメリカをはじめ世界の国々は、ただ見つめるだけでしかありません。

自由・平等・友愛の理想を求め続けてきたヨーロッパにも、最近はファッショの風潮が蔓延しています。そして、世界の警察として白人至上の民主主義を押し付けてきたアメリカでも、プアーホワイトと若者たちの絶望が、機能マヒした民主主義を忌避し、差別と憎悪、閉鎖と排斥の道を選択してしまった。あれよあれよのトランプ現象は、アーリア至上のヒトラー・ファッショを連想させます。ヒトラーのナチスも、当初は民主主義というルールの申し子だった。それがファッショ化するのに、わずか1年余しかかからなかった。民主主義とは何と脆いものか。憎悪と排除の心とはいかに恐ろしいものなのか。

 結局、民主主義を何とかかんとか大事にしているのは、広い世界で日本ぐらいのものではないでしょうか。
国連では、193か国の加盟国の命運に関して、たった5か国が拒否権をもっており、わずか1国が拒否権発動するだけで、世界政治は機能不全になるという理不尽がまかり通っています。

世界の国家が闊歩する大通りでは、一握りの専制強国と追従専制諸国が傍若無人を既成化しており、いまや民主主義諸国に元気なく、これらの既成事実を押し返す力をもはやもっていない残念な実態にあります。宗教も政治も経済も、平等や正義や公正などを軸に動いては来なかった。人間社会とはこんなものだと淋しく諦めて死んでいくしかないものなのでしょうか。人間社会には、神も仏もないものでしょうか。
いやいや決してそうではありません。
人間社会には、国家ベースが歩む、殺伐とした汚れた歴史の大通りとは別に、個人と個人が心音で繋がりあった歴史
の小路があり、そこには凛とした個人の生き様の膨大な積み重ねがあります。この小路こそが人間社会の宝物であり、国家ベースの歴史とちがって、人間の尊厳を紡ぎ通しているものなのです。

今朝の新聞にも美談が載っていました。
国内外の心臓病の子供を救う「明美ちゃん基金」に88歳の匿名の男性が、現金100万円を寄託したという。
この男性は、平成24年3月以降、総額900万円を寄贈していて、いつも「名無しのごんべい」で通して、名乗らずに立ち去るという…なかなかできない美談です。

そういえば、プラットホームから落ちた人を救おうと、線路に飛び降りて電車に跳ねられた韓国の若者がいました。心の小路では、この種の善行がいつもいつも積み重ねられています。

このように、人間社会の軌跡には、大通りと心の小路という、人間に関するふたつの真実が拮抗しています。ならば私たちはせめて、凛とした心の小路に、大通りの理不尽が浸み込んで来ないよう、愛と信頼と共生の実践を積み重ねて、心の小路を守っていくしかないと思います。そしてこの小路によって、人間社会の軌跡を尊厳なものとして刻み込んでいきたいと切に思うものです。

だからこそ僕は、背筋をシャキッと伸ばして、凛として在りたいと願い、子どもたちにも、いろいろあっても、状況に毅然と立ち向かい、凛として生きて欲しいと願います。一生なんてしょせん、無から有となり、また無に帰るだけのことではあっても、凛として在りたいと願うからこそ、生きている証しが得られ、救われるのだろうと思います。心の小路には、神も仏もきっといらっしゃるから…。

【工藤】

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